7)Yala peak日記
9月22日(日)14:00関空⇒17:15広州空港19:40⇒22:15カトマンズ 「準備期間を終え関空からいよいよ出発」
今回は、往復航空路とも中国南方航空を利用した。中国南方航空は、広州空港での乗り換えだが、transferも簡単、機内サービスも悪くはない。出発当日の22:15にカトマンズ到着は便利だ
関西国際空港の中国南方航空チェックインカウンターに12:00全員集合、直ぐにチェックインカウンターで荷物を計量、中国南方航空日本地区コールセンターで事前に座席を予約していたのでスムースにチェックインを完了することができた。
関空から広州まではcz390便(航空機はエアバスインダストリーA321)14:00関空発→広州17:15着、機内では日本語のアナウンスもあり、なんとなく落ち着く。広州からは、3067便(エアバスインダストリーA319)、機内の座席数は少なくなり日本語アナウンスはない。満席、日本人は少ない。19:40発→カトマンズ到着22:15
トリブバン空港には予定通り到着、昨年も泊まった宿舎Fuji Hotelに落ち着く、
9月23日(月)「カトマンズ市内観光と登攀用具調達」
ネパール初訪問のメンバーのためボダナートのストゥーパなどを訪れ市内観光、登攀用具などの調達で一日を過ごす。夕食は、ビールをしこたま、ワイン3本、さらにホテルへ帰ってビールで仕上げて明日からの健闘、登頂成功を祈願して門出の祝宴を終了する
9月24日(火) 7:50カトマンズ⇒15:30Syaphrubesi 「悪道路でスリリングなランドクルーザ体験」
午前6時起床、7時食事、8時行動開始。基本的にはこのパターンで行動する。新車同様のトヨタのランドクルーザーで宿舎のFuji Hotelを出発。街中を走っている車と比較して随分立派な車を準備してくれたものだと思ったが、その訳は後に分かることとなる。
カトマンズからはKathmandu-Trishuli-Dhunche Roadを北上するが荷物を満載したトラックが陸続と続く、悪道路も初めのうちは我慢できる程度であったが、Grangを過ぎたあたりから道路は極端に悪くなる。車の幅一杯の狭い道路で随所に土砂崩れの箇所があり、しかも急傾斜、ついに前方のバスが坂を登り切れずにストップ。ブルトーザーが来て引き上げるまで待たされる羽目になる。この道路では新車同様のランドクルーザーは絶対必要条件だ。新車同様の車でも運転手は時折、車を降りてタイヤ回りをハンマーで叩いて点検する状態、誠にスリリングな体験をさせられた。
登山基地Syaphrubesiまでの道路では軍・警察それぞれのチェックポストで度々止められチェックを受ける。車はナンバープレートで営業用と自家用車に区別されているようで、われわれの乗った車は自家用車だったらしくお客を乗せて営業はできない、とクレームがつきDhuncheの軍のチェックポイントでは長時間待たされる。
昼食はBIDUR近くの小さな食堂でとる。この食堂はネパール名物ダルバート料理だけ、一人の店員が店内を巡回していて、一つの皿に幾つかの料理を盛り合わせているダルバート料理の一つが無くなると横からすぐに注ぎ足してくれる。食べ放題だ。
いろいろあったが何とか午後早い時間に宿舎Syaphrubesiの「BUDDHA」に到着することができた。
9月25日(水) 7:35 Syaphrubesi ⇒14:15Rimche 「竹林氏残念ながら本隊を離脱」
いよいよトレッキング開始、高度1460mのsyaphrubesiから2440mの Rimcheまで約1000mの登りである。高度順応を意識してネパール語でビスタリ(ゆっくり)、ビスタリと歩くが、それでも時が経つにつれて遅れがちになる者がでてくる。。
Bambooのロッジで昼食。今一つ調子の出ない竹林氏は、無理をせず高度順応のために予備日を設けているKyanjin Gumbaで、2日遅れて合流することにしてポーター一人と共にここに滞在することに決定。合流後の本人の話ではこの決定は正解だったようだ。
9月26日(木) 8:00 Rimche⇒15:27 Thangsyap 「初めてアクシデントなく順調にThagsyapに到着」
期間中、日本食を中心とした今回の食事は大変上出来。それを取り仕切ったコックが、昨年はポーターをしていたワンダーだったと聞いて驚いた。人は時の過ごし方によって大きく変化し、成長するものだと実感する。この日の昼食は信州そば、美味しくてお替りをするほどだった。10年前のパルチャモ峰遠征の食事を思い出すとまさに今昔の感あり。
途中のGhodatabelのロッジでは、ロッジではじめての洋式トイレにお目にかかる、久し振りに洋式トイレで用を足し大満足。カトマンズ市内の喧騒具合は変わらないがコースにもよるが、トレッキングルートのロッジは少ししづつ近代化している。
25日Bambooで本隊を離脱した竹林氏は,元気にBambooを出発してRimcheに向かっているとの途中の情報で一安心。
9月27日(金) 7:45 Thagnsyap⇒14:40 Kyanjin Gumba 「いよいよ高度順応予定地に到着」
昨夜は大雨で今日の天候を心配したが朝起きると快晴。今日はあまり急峻な登りもなく14:40到着。Kyanjin Gumba高度3830m、とうとう富士山を超える高度に到達したことになる。そろそろ高度の影響もでるであろうし、疲労も蓄積されてくるころである。いよいよ明日からが登山活動の領域に入いることになる。今夜からは禁酒だ。朝は快晴であったが夕方から大雨となる。このところ連日同じような天候。
9月28日(土) 8:10 Kyanjin Gumba⇒9:15Kyanjin Ri⇒13:10Kyanjen Gumba 「高度順応のためKyanjin Ri 4350m(前衛峰)へ登る」
午前中は、高度順応のためにKyanjin Gumba北にあるKyanjin Ri の前衛峰4350mに登る。 午後からは2日遅れで登ってきた竹林氏を含め全員でハーネス・アッセンダー・アイゼンを装着して装備の再点検とザイルをつけて登下降の確認訓練を行う。遅れてきた竹林氏はBambooで休養した影響もあるのか、思っていたより元気、他のメンバーより元気なように思えたが、確認訓練後、本人は「ここまで来れたことで十二分に満足している、今後、メンバーに迷惑を掛けては申し訳ないので、ここに滞留したい」との本人の申し入れで、まことに残念だが今後の登行断念を決定する。
9月29日(日) 8:00 Kyanjin Gumba ⇒ 14:20Yala kharka 「いよいよ本格的登山活動開始・山崎氏、体調悪化で登行続行を断念」
kyanjin Gumbaでの高度順応は完了したが、そろそろ疲労の蓄積、高度の影響も出てくる頃である。kyanjin Gumbaを8:00に出発して11時前、2度目の渡渉地点を過ぎてから急阪に掛かる。ナレンダ、木下、山崎、真浦、草本、の順で重い荷物を背負ったポーター達と前後しながら急阪を登る。ナレンダの歩行ペースは速い、時間の経過とともに山崎氏以降のメンバーのペースが落ちてくる。
ヤクの放牧場の石積の囲いの中で昼食をとる。急阪を登ってきた直後とあって、みんな疲れている様子だ。昼食後、高度4580mの地点で山崎氏の調子が悪くなる。心臓が気掛かりなので、これ以上の登行は無理だ、との本人の意向で慎重を期して残念ながら登行続行を断念することに決定。下からの応援のポーターと出会うまでサーダーと一緒に下りることになり、木下、草本、真浦の3人で登行を続ける。
先行しているポーター達の人影がYala kharka辺りに見えてきた頃サーダーが追い付いてくる、Tsergo Riの中腹をぐるぐる回り、高度の影響もあっと思うが、長く、長く感じる道程であった。14:20ようやくYala
kharkaのテントサイトに到着する。石積の小屋が所々にある広いスペースの絶好のテントサイトだ。10年前、岸壁にへばりつく様に張られ寝ていて滑り落ちそうであったパルチャモ峰でのHigh
Campに比べれば雲泥の差だ。
9月30日(月) 7:45Yala kharka⇒8:45High camp 「 草本、真浦、高山病発症、木下だけHigh campへ」
今日はHigh Camp入りの予定だがサーダーのbirが来て女性二人は調子悪そうで、High Camp入りは無理だろうとの情報、二人のテントへ行ってみると真浦氏は昨夜から頭痛がして朝食もいらないという、顔も相当浮腫んでいる、草本氏も左目が腫れていて顔も少し浮腫んでいる様子、二人とも昨夜のうちに高山病が発症したようだ。そこで残念だが、二人は今日中に山崎、竹林両氏の滞在しているKyanjen Gompaのロッジまで降りてもらうことにする。
メンバー全員ここまで頑張ったが、持病主としてのそれぞれの事情もありアタックメンバーは、とうとう木下一人になってしまった。メンバーのみなさんには申し訳ない気持ちだ。
午前7時45分ポーターのボー君をつれて二人でHigh Campへ向かう。9:00 High Camp予定地に到着。テントをもう少し上部に設営したいと思い偵察に出掛けたが適地がなく結局この場所にテントを設営する。一方、クライミングシェルパのナレンダとサポートのテンジンは朝早くからルート工作に出掛け午後2時頃High Campに戻って来る。雪壁にフイックスを張ってきたそうだ。この後、午後5時頃から雲がでてきて予報の通り天候は下り坂の兆候になってきた、夕食後には、ついにみぞれ交じりの雪となる。明朝は2時起床、3時行動開始の予定だ。19時ごろシュラフに入るが小雨交じりの降雪がテントに当たる音が気に掛かる。夜中、小用に起きたときにも相変わらずの降雪、この時期吹雪にはならないだろうが明日のアタックが気掛かりだ。
10月1日(火) 3:15 yala khrka⇒山頂アタック⇒9:45撤退⇒(ハイキャンプ通過)⇒( yala khrka通過)⇒22:15 Kyanjin Gumba
「山頂アタックするが撤退」
3時行動開始の予定が、スタッフの準備が遅く出発は3時過ぎになってしまう。クライミングシェルパのナレンダに先行して、サポーターのテンジンと二人で小雪がちらつく中、ヘッドライトをつけてテントを出発する。雪の積もったガラ場が歩きにくい、たまに現れる岩場を攀じ登りながらテンジンを追うが苦しい。やがてクライミングシェルパのナレンダが追い付いてくる、ナレンダとテンジンは昨日工作したルートを探しながら先行する。彼らのライトを目指して適当にルートを探しながら後を追う、7:27やっと雪壁の取付き点に到着する。ここまで4時間掛かったことになる、状況の悪さを考慮するとまあまあか。早速、アイゼン、ハーネスなど登攀用具を装着する。
雪壁は氷壁状の堅雪の上に昨夜の雪が薄く積もった状態、アッセンダーを使ってアイゼンを蹴りこみながら登る。5000mを超える高度でこの作業は苦しい。フィックスザイルの継ぎ目でのカラビナの架け替えは特に苦しい。同じリズムで登ろうとするが続かない。立ち止まって息を整え頑張って登るが、先行するナレンダとの距離は一向に縮まらない。苦しみながらやっと雪壁をクリヤーした。
その時「行きますか?」とナレンダが聞くので即座に「行こう」と返事、ナレンダも「よし行きましょう」と言って再び二人でノーザイルで登り始める。やっとアッセンダーから解放されピッケルに持ち替えて歩を進める。歩きながらナレンダの質問の真意に思いを巡らせていた。「スローペースだが大丈夫か?」「疲れていないか?まだ登れるか?」など、などその真意を図りかねていた。と、同時に天候が良くないことHigh
Campは撤収されている予定なので、その先まで下らなければならないこと、ヘッドライトの光であの岩場交じりのガレ場を体力を消耗しつくした状態で下れるか?ここまでくれば、ほぼ目的は達したではないか、など、など、ネガティブな考えが頭をよぎる。その時、突然10年前、パルチャモ峰に登頂してヘロヘロになってテントに帰り、食事もせずテントに倒れこんだ時のことを思い出す。そして一番安易な結論を出してしまう。”撤退”。
下山はフィックスザイルにエイト環をセットして懸垂下降で下る。フイックスザイルが雪に埋まって、ザイルが張り過ぎてエイト環を利用できない個所がある。そこはナレンダの確保で下り続ける。ナレンダがヒドンクレバスに気を付けるよう、声をかけてくる。クレバスの位置は登りのトレースもあり分かっているが声を掛けられ、より慎重に下る。どれほど時間が経過しただろう、ようやく取付き点に降り立った。そこにはサポーターのテンジンが待っていた。もう少し遅ければ下っていたのだろうが、8時に登攀開始して今は12時頃4時間くらい待っていてくれたことになる、寒い中、申し訳ない。
フィックスザイルを撤収してくるナレンダを待ってガレ場を延々とHigh Campまで下る。登頂できなかった落胆もありへとへとになってHigh
Campにたどり着く。そこにはアタック前夜一緒だったポーターと先に下りたテンジンが、High Campを撤収せずに待っていてくれた。今夜はここに一泊すると思っていたようだ。へとへとになって、下りてきたがポーターが作ってくれたラーメンを食べているうちに元気を取り戻し、この道ならばどこまでも歩けそうなくらい気力が回復、ポーター達は早くKyanjin
Gumbaまで行きたい様子、恐らく22時を過ぎるであろうが一気にKyanjin Gumbaまで下り、そしてロキシー(焼酎)、に決定。すぐにテントを撤収して3時過ぎに出発する。
ナレンダには、ここからなら大丈夫、一人で下れるから先に行ってくれて結構、と言い渡して歩き出す。誰もいない、誰にも会わないヒマラヤの夕暮れの道を一人で歩く、あれこれ思いを巡らせながら歩く。疲れは全く感じない、High
Campから上のヘバリ具合が不思議に思えるほどだ。一人歩きのリズムが出て快調に下っていると、遠くで叫び声がする。飲み物、ビスケットを持って迎えに来てくれたサーダーの弟と、先行のナレンダ、ポーター達だ。往路、昼食をとった場所で合流し休憩。時刻は午後6時、Kyanjin
Gumbaまでまだ3~4時間は掛かるだろう。
休憩後は、ナレンダとサーダーの弟がサポートしてくれた。ここからが長い長い道のりだった。歩けども、歩けども、登りにあった渡渉地点が現れない。午前1時50分に起床、午前3時過ぎから行動してきたジャブが徐々に効いてくる。ボロボロの状態でようやくkyanjin
Gumbaのロッジに辿りつく。到着22時15分。行動時間は20時間25分。ボロボロになるはずだ。アタックから直接kyanjin Gumbaへ下りてきたことを知っていたロッジの主人が庭先で温かく迎えてくれる。すぐに横になりたかったが、ロキシーの約束を思い出しポーター達のいる厨房へ行くとナレンダが待っていた。離れたところにある彼の定宿のロッジから足を運んでくれたようだ。すぐにHigh
Camp入りしたメンバーだけのロキシーパーティーが始まる。これが登頂成功のパーティーならば・・・・・。何時に打ち上げたのかは今も思い出せない。
10月2日(水) 8:20Kyanjin Gumba⇒Langtang⇒15:30Ghodatabela 「ランタン村へ駆け下りてメンバーと合流、Ghodatabelaへ」
今日は、われわれHigh Camp組がLangtang村まで下り、そこで残留組の仲間と合流してGhodatabelaへ向かう予定だ。昨夜、温かく迎えてくれたロッジの主人が庭先まで見送ってくれる、フェリペトウンラ(また会いましょう)と挨拶をして別れる。ナレンダとポーター達は先行している。こちらはサーダーの弟と二人で歩き出す。昨日はボロボロの状態でロッジに辿りついたが、ロキシーのお蔭なのか体調は悪くない。動いているうちに徐々に調子が出てきて途中から、トレイルランとまではいかないが、走りながら下っているうちに先行して休憩しているナレンダ達に追いつき追い越してしまう、彼らは追いつかれたことにビックリ、拍手を送ってくれる。
10時過ぎLangtangのロッジに到着、仲間と握手を交わす、みんなには登頂成功と伝わっていたらしい。申し訳なかったが、やむを得ない。昼食後Ghodatabelaへ向かう。途中で草本氏が調子を崩して心配したが大事に至らずGhodatabelaのロッジに到着する。高齢化集団では、いつ何が起こるか分からないし、起こってもおかしくない、登山テクニック以外の心配で気が休まらない。
10月3日(木) 8:00Ghodatabela⇒15:10Syerpagaon 「Langtang Kholaを離れてSyerpagaonへ」
小雨の中をロッジを出発する。今年は天候に恵まれなかった、短時間ではあっても毎日のように雨に見舞われた。Ghodatabelaからの帰路はRimche近くで、往路に辿ったLangtang Khola沿いの道と分かれて、山腹の道を辿りSyerpagaonのロッジに午後3時過ぎに到着する。先に到着しているポーター達はすでに夕食の準備に取り掛かっている。若いキッチンボーイが鮮やかに手つきで鶏を捌いている。14年ほど前Chhukung Ri 5550m峰登頂の山行で、サーダーが庭に放し飼いにしている鶏を一匹、素早く手づかみにして、それが夕食の料理に出てきたことを思い出す、今日の鶏もカレー味の唐揚げになって食卓に供された。デライ・ミート・ツァ(大変美味)でした。
10月4日(金) 8:00Syerpagaon⇒15:27Syaphurubesi 「全員無事故で登山基地へ帰る」
「Yala Peak」登頂の目的は達成できなかったが、全員無事に登山基地Syaphurubesiに帰ってきた。宿舎の「BUDDHA」に着いて他のメンバーは何日ぶりかで早速、シャワーを浴びたようだ。好奇心旺盛な木下はTrisuli河畔に温泉があることを聞きポーターに案内してもらい出掛けてみた。村の青年たちが2~3人入っていた。湯量は少なかったが久し振りに全身お湯に浸かり誠に快適。青年達の話では日本人もたまに入いりに来るそうだ。
ポーター達とは今日が最後の日。夕食時にお別れパーティーを開く、最初にクライミングシェルパのナレンダがケーキにナイフを入れる。本来ならば登頂成功お祝いのケーキになるはずだったのだが・・・・・。ポーター達も明日は仕事から解放されるとあって楽しそうだ。『レサム ピリり レサム ピリリ ウデラザウンキ ダンダマバンジャ レサム ピリリ・・・・・・』と、「レサム・ピリリ」の歌をポーター達と合唱、それぞれ勝手な身振り、手振りで共に踊り、最後の夜を楽しんだ。
10月5日(土)8:45Syaphurubesi⇒16:30Kathmandu 「再びスリリングな道路を経由してKathmanduへ」
往路で肝を冷やした悪路では、復路でもフロントガラスが全面割れてしまっているバスの事故に遭遇、一時待機させられたが、何とかKathmanduへ帰ってきた。Kathmaduでは、ここ数日来の天候不順でポカラへ飛行機が飛べず、エベレスト街道方面への登山客で市内の宿は満杯状態、その影響でわれわれもサーダーがようやく確保してくれた、正式オープン前のホテルに今夜だけ泊まることになった。
10月6日(日)・7日(月) 「6日・7日Kathmandu滞在、7日午後サーダー宅を訪問、その後Nepalをはなれる」、
6日午前中は、臨時に確保したホテルから定宿のFuji Hotelへ移動、午後は買い物。7日は、買い物後、招待でサダーの自宅を訪問、大歓待を受ける。同席には登山に同行した近くに住むポーターの若者達があいさつにきてくれた。みんな学生、好青年だ。別れを惜しむ。
サーダー宅でのパーティー後、サーダー夫妻に空港まで見送ってもらう。サーダーとの付き合いは2003年のパルチャモ峰以来10年になる。信頼できる友人だ。今回も難しい年寄り軍団の面倒をよく見てくれた。ダンネバード(ありがとう)!!!。
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