平成13年6月10日

Imja Tse(Island Peak)挑戦記録

関西山岳会 木下 荘

期   2001年 5月2日(水)〜5月20日(日)    

メンバー  脇屋龍人、木下 荘 以上2名   

ガイ  Dswa Sherpa、Nawang Phori Sherpa
                        以上2名

 記録

 
昨年に続いてのヒマラヤ遠征である。昨年、トレッキング中にアイランドピークを挑戦目標に決め、帰国後早速、脇屋氏をお誘いする。昨年同行したDawa Sherpaにも一緒に行ってもらうことに決めて具体的計画に着手、アイゼンワーク、ザイルワークのトレーニングを積んでの挑戦であったが、残念ながら登頂を果たすことができなかった。第1次アタックは5月11日、降雪の中を出発したが、クレバスが雪に覆われ危険なため5600bから撤退、翌12日は午前0時35分BCを出発したが前日の雪で雪壁の状態が悪く、雪壁を登りきったところで時間切れとなり6100bから撤退、という結果に終わった。原因はいろいろ考えられるが、まず第一には体調維持に失敗したことだろう。前半に風邪を引き、体力回復が不十分なまま2日連続してアタックに臨んだこと。アタック当日、登るペースが速すぎたこと。結果論ではあるが、ペースを遅くしても時間的にはもう少し登攀を続けられたのではないか、との思いは残る。

5月2日(水)晴れ    日本を飛び立つ
 今日は関西空港12:30発ロイヤルネパール航空に搭乗する予定である。目下、病気入院中の父親の容体を気に掛かけながらの気の重い旅立ちとなる。天王寺8:06発、紀州路快速に乗車、空港で脇屋氏と海外旅行傷害保険に加入する。16番ゲート前で約1時間待機して12時に搭乗開始。マオイストの活動地域拡大による治安情勢の悪化が影響しているのか、機内は空席が目立つ。外務省の「海外危険情報」によると最近では比較的治安が良好と言われていたカトマンズでも騒乱が起こっているようで先行きが心配だ。
 給油のため立ち寄る上海へ2:40到着。約1時間滞在した後「加徳満都」の看板に導かれ再び搭乗、上海を離れる。
ドリブバン空港でDiliphの出迎えをうける。 トリブバン空港に現地時間6:00に到着。空港は改築が進んで入国審査のホールなど、昨年より随分綺麗になっている。空港を出ると相変わらず客引きが多い。飛行機が早く着いたためか、迎えに来ているはずのディリップとダワの姿が見えず、10分ほど遅れて到着、気をもむ一幕があったが、今夜の宿舎ムーンライトホテルに19:30無事到着する。明日から行動を共にするダワとビールを飲みながら予定を確認、現地時間22:30、日本時間午前1:45床につく。夜中に何度も目がさめて困る。ビール大瓶160ルピー、日本円で282円。
 [参考]1ドル=125円、1ドル=70ルピー、1ルピー=1.76円

5月3日(木)晴れ後雨   登山準備のためカトマンズ滞在
 3:00に目覚める。5:00起床。ホテルの窓からは今にも崩れ落ちそうなレンガ積みの家々が見渡せる。朝食前にホテルの周囲を脇屋氏と1周りする。街角には多くの人がたむろし、バイクはクラクションをけたたましく鳴らして走り回り、7時前だと言うのに街は喧騒をきわめている。
 登頂成功を祈る。今日は登山準備のためカトマンズ滞在である。ホテルでコンチネンタル定食140ルピーの朝食を取った後、ディリップの事務所を訪問、事務所からホテルへ戻る途中、チョモランマに7回登頂、頂上での滞在記録も持つシェルパ、BABU CHHERI SHERPAの葬儀の行列に偶然出会う。棺の前後にシェルパ仲間、僧侶、軍隊、軍楽隊、警官、一般市民の行列が延々と続く。まさに国民的英雄なのだろう。彼はエベレストのC2で夕食前に写真を撮るためインナーブーツでテントの外へ出て、クレバスに50m落ちて亡くなったとのこと。遺体は傷ついておらず、顔も綺麗であったようだがプロのガイドとしては、魔が差したとしか言いようのない死である。
 この後、市の中心から西へ3キロ、長い石段の上に巨大な白いストーパ(仏塔)の建つ、昨年も訪れたスワヤンブナート寺院、旧王宮のあるハヌマン・ドカを訪ねる。スワヤンブナート寺院では仏塔の周りのニマ車を回しながらオンマニプヅムフム、オンマニ・・・とお経を唱えながら時計回りに仏塔を1周してアイランド・ピークの登頂成功を祈る。ハヌマン・ドカのFestive Fare RESTAURANTで昼食。Chowmein(焼きそば)155ルピー、Cam Beer95ルピー。
 ホテル帰着3:50。体中に石鹸をつけてシャワーを浴びようとしたが水圧が低くて水はチョロチョロ、石鹸を洗い流すのに苦労する。街へ出掛けて夕食を、と思ったが、突然激しい雨、あきらめてホテル内でとる。食事中に2度ほど停電、レストラン内は真っ暗になるが、ボーイは一向に慌てる様子もなく、にこやかな顔ですぐにキャンドルをもってくる。用意周到なところを見ると停電はよくあることのようだ。停電騒ぎは昨年は1度も経験しなかったのだが。
 ムーンライトホテルの宿泊料は朝食付でツイン1泊28ドル。シャワーに問題はあるが1人14ドルは安い。

5月4日(金)晴れのち雨    登山活動開始、ルクラ〜パグディーンへ
 5:30起床。7:20ディリップが迎えにきて、先に来ていたダワと一緒に空港へ向かう。本来ならば登山基地となるルクラ空港へ直接飛ぶところだが同空港が改装中のため、パプルーで飛行機からヘリコプターに乗り継いでルクラへ向かうことになる。空港のドメスティックターミナルは相変わらず混雑している。今回の登山には参加しないディリップとはここでお別れ、「グッドラック」の声に見送られてセキュリティチェックに向かう。ここでダワは係官に文句をつけられて賄賂を要求されたそうだ。現地人に対してはそのようなことが、度々あるようだ。
 9:13バスで滑走路へ。軍用機が混在する滑走路で、給油作業を見物しながら、飛行機の到着をのんびりと待つ。飛行機はYeti・Air・lineのツィン・オッター機19人乗り。同乗者は中国人グループ7、白人2、インド人2、われわれ3計14人。9:50離陸、10:30パプルーの石ころだらけの滑走路に着陸する。滑走路は一本。飛行機、ヘリコプターが3分間隔で離発着している。ここでカトマンズへ帰る一人の日本人に出会う。茅ヶ崎市在住の67歳、1970年カンチェンジュンガに挑戦、3年後の2004年には、70歳の古希を記念してチョ・オユー挑戦を考えているとか。凄い男がいるもんだ、と感服。
パプルー飛行場 11:35ヘリコプターに乗り込み11:48分登山基地ルクラ空港に無事着陸。ヘリコプターの乗り継ぎがうまくいくかが気掛かりであったがトラブルもなく無事に辿り着きホットする。
 近くのバッティー(茶店)でクライミング・ガイドのナワ・シェルパ、ポーター達と合流。ミルクティーを飲んで12:25歩き始める。いよいよ登山活動開始である。今夜の宿泊地パグディンの少し手前で、トレッキングチームメンバーの女性が道の真中に倒れて手当てを受けているのに出会う。高度2550b、高度障害なのだろう。
 パグディンに15:45到着.脇屋氏、ダワ、と共に高度順化のため裏山の2811bまで登る。小雨の中を今夜の宿舎「エベレストゲストハウス」に17:45帰着する。夕方から激しい雨となるが、夜に入ってから上がる。夜は、日本に行きたいと言うロッジの娘さんと、ナワ・シェルパを通訳に大いに話しが弾む。就寝23:00


5月5日(土)晴れ   パグディーン〜ナムチェバザールへ
 ナムチェバザール午前3:00、小便に起きてからはウツラウツラで熟睡できず。朝起きると昨夜の雪で真っ白に雪を被った山に、朝日がキラキラとあたって美しい。7:30出発。今日はナムチェバザールまでの予定だ。サガルマータナショナル公園入り口の手前で10人ほどの日本人トレッカーに出会う。首相に小泉純一郎が選出されたことを知らないようで「日本の首相は誰になりましたか」と質問される。ゴウキョピークに登頂してきたそうだ。
 ナムチェバザールに14:05到着。今日は土曜日、ナムチェで市の開かれる日であるが残念ながら午後のためバザールは終わった後。一部、チベットからの行商人が売り物の衣料品を地面に並べ、手持ち無沙汰に雑談していた。ナムチェバザールはクーンブ地方では一番大きな村で登山客相手のロッジやホテルが軒を連ね土産物屋、登山用品店も多い。脇屋氏、ダワ、と一緒にひやかしながら店をのぞく。最新の登山用具もあるが、使い物にならない骨董的なピッケル、アイゼンが埃を被って並べられているのが不思議だ。
 夕方、テントを張る時間になっても、テントを担いだはずのポーターが到着しない。サーダーは、テントを担いだポーターが途中で博打をしているかもしれないと言う。待つこと暫し、やっと到着して事なきを得たが、今西錦司著「そこに山がある」の本に、「・・・テントを担いだポーターが途中でチャンを飲みすぎて荷が背負えず、彼自身が別にポーターを一人雇って荷を担がせ、いいご機嫌で遅れて到着したのにはア然とした」とのくだりがある。1973年の本だからポーターの質は今も昔も変わらないと言うことか。
 夕食後、ロッジの男が風邪気味なので診てくれないか、と言ってくる。われわれが血中酸素濃度計で測っている時、そばでジーと見つめていたのでドクターと勘違いしたのかもしれない。手持ちの風邪薬を進呈する。血中酸素測定値 脇屋79、木下83、ダワ83。今夜はテント泊。就寝20:50。


5月6日(日)晴れのち雨      高度順応のためナムチェバザール滞在
 
 昨夜は就眠薬ソメリンを飲んで寝た効果か熟睡する。テントも広く、シュラフも快適、気持ちよく目覚める。テントサイトの真ん前にはCongde Ri6187bの圧倒的な岩壁が見える。今日は高度順化のため高度3719メートルにあるエベレストビュー・ホテルを往復する予定。昼間はTシャツで十分だが朝夕はフリースでも寒く感じる。今日から厚手のズボンに穿き替える。
 ダワ、木下、ナワ、脇屋(左から)エベレストビューホテルで。 8:30出発。テントサイト裏手にあるチョルコンの丘に登る。大きな石が格好の展望台。雄大な眺望を楽しんだ後、シェルパ資料館に立ち寄る。昨年は入場無料であったが今年は50ルピーをとられる。エベレストビュー・ホテル到着11:20。残念ながらエベレストは雲に隠れていたが、右からアマダムラム、ローツェシャー、ローツェ、ヌプツェとテラスからの眺めは壮観。ホテルのレモンティー50ルピー、を飲んで11:50ホテルを離れる。
 ホテルから下山中全身がだるく、眠たくて堪らない。高度障害の初期は眠気をもよおすとか、少し気掛かりだ。往路で、負荷をかけてどれだけ耐えられるか、と一人で真直ぐ登るルートをスピードを上げて頑張って登ったのが影響しているのかも知れない。
 テント着13:45。レモンティーを飲んでいると、ポーターの一人がダワ・サーダーに給料の前借りを要求してくる、上の村にいる家族に食料を買っていくためだとか。サーダーの仕事も大変だ。お茶を飲んですぐに昼寝、17:00までぐっすり。15:00頃から雨になったようだ。

5月7日(月)晴れのち曇り     ナムチェバザール〜デボチェ へ 
 5:00起床. Congde Ri6187の山肌は昨夜の雪で真っ白になっている。7:45スタート。アマラムダムロッジで休憩。アイランドピークからの帰りだと言うシェルパの情報では、今年は14隊がアイランドピークに挑戦中だとか。
 昨年と同じブンキタンガの昼食場所に10:18到着。周囲は昨年と違ってシャクナゲが満開。太陽がギラギラと照り付けて暑い。12:15昼食を終えて出発。昨年のテントサイト、デンボジェに13:38到着するがキャンプ地が満杯で次の村デボチェまで足を延ばす。到着14:20。デンボジェからこのキャンプ地への途中、急に足に疲れを感じる。キャンプ到着後、血中酸素濃度を測定、値は90で悪くないが全身がけだるい。風邪の前兆か?アマダムラム・ロッジの裏庭にテントを張る。20:20就寝。


5月8日(火)晴れ   デボチェ〜ディンボチェ へ

 昨夜からすこぶる体調悪く、夜、風邪薬、抗生物質剤フロモックス、高山病予防薬ダイモックスを飲んで寝る。ダイモックスのせいか夜中に3度も小便に起きる。朝食も進まず。頭痛はないので高山病ではないと思うが不安だ。このまま下山と言うことにでもなれば、と思うと落ち着かない。
 朝食後、7:25、他のメンバーに先行して出発する。脇屋、ダワ、ナワ、の3人は7:40出発。10:10ソマレ到着。ここで昼食、ロッジの長椅子に腰をおろすと、薬の影響か、すぐに寝入ってしまう。昼食後11:40、残念ながらナワ・シェルパに荷物を持ってもらい2人で先行する。他の2人は12:00出発。この区間はどうにか追いつかれずに13:15今夜の宿泊地アマラムダム・ロッジに先着する。ここで初めて目標の山、アイランド・ピークを目にする。
 今夜はダワの配慮で予定を変更してロッジ泊まり。夕食時、「広島山の会」のメンバーに会う。昨日アイランド・ピークに登ってきたとのこと。一行のなかの太田女医に症状について相談する、風邪薬を飲んでおればいいでしょう、との診断。就寝20:10。

5月9日(水)雪のち雨    ディンボチェ滞在
 起床6:00。朝起きて見ると辺りは雪で1面真っ白。ロッジの庭では荷運びに使われるゾッキョ(牛に似た動物)が2頭、雪を被りながら寒そうに立っている。今日は小生の体調を考慮してこの場所で停滞。「食堂に寝ころがっていると、道を行くゾッキョの首の鈴がゴロン、ゴロンと聞こえ、それを追う牧童の口笛がヒュー、オッと言う掛け声が通り過ぎていく・・・」このくだりは脇屋氏のメモ。食堂の隅ではダワ、ナワの2人がトランプに興じている。静かな1日である。
 広島山の会のメンバーは9時ごろ下へ向かって出発する。昨日よりは体調は良いようだが昨夜からの咳が止まらない。風邪の治る直前は病状が咳に変わると言うが・・・。
 夕方、ドイツ人夫妻が到着する。昨年の6月から今年の9月まで旅を続けるそうだ。明日はチュクンへ向かうと言う。羨ましいかぎり。昼頃から雪は雨に変わる

5月10日(木)晴れのち雪    ディンボチェ〜ベースキャンプ入り
 


ベースキャンプ5:20起床。昨日の雨はすっかり晴れて快晴。宿舎の前のアマダムラムが朝日に映えて美しい。朝食後、上のロッジに電話があることを知り、気掛かりであった父親の容体を確認するためダワと一緒に出掛ける。病状は出発前と変わらない、との元気な女房の声を聞き、いくぶん気持ちが晴れ、元気ずけられる。
 今日はチュクンを通り越して一挙にベースキャンプ入りの予定である。16:10テントサイト入り口に到着.テント場には各国のテントが以外に多い。われわれは尾根末端を回りこんだテント場の一番奥、ACへの登り口付近にテントを張る。夕方になって急激に気温が低くなる。はじめて羽毛服上下を着込む。少し前から降っていたみぞれは雪に変わり周囲は真っ白になるくらい、明日のアタックが心配である。明日は午前1:00に出発の予定。アタックの準備を整えて19:35就寝。

5月11日(金)雪のち晴れ    第1次アタック
 午前1:00、出発の時間に起きてみると外は雪。しばらく様子をみていたが、外国人2名のパーティーが行動するのを見て2:15、テントを後にする。降雪の中を黙々と上を目指す。ダワ、小生とナワ、脇屋氏とのグループに分かれて登りつづける。
 アタックキャンプ設営地近くで上から降りてきた男女の外国人パーティーに出会う。雪でクレバスが見えないため撤退する、と言う。われわれは引き続き登り続けるが、雪はますますひどくなり、やはり撤退とする。テント帰着午前4:40。
 上の状態は分からないがテントの周囲は9:00頃から晴れてきて、もう少し粘っておれば、と残念に思うがすでに後の祭り。

5月12日(土)晴れ   第2次アタック
 午前0:35分キッチンボーイの入れてくれたモーニングティー1杯を飲んでダワ、ナワ、両シェルパと3人でテント前のガラ場を登り始める。脇屋氏は胸に痛みがあり体調がすぐれず、みんなの足を引っ張ることになっては、とアタックを辞退される。誠に残念。自分1人だけのアタックとなり申し訳なく思う。
 クレバス地帯を行く。 今日は昨日と違い天には星が輝いている。今日はなんとしても登頂を果たしたいものだ。ACキャンプ設営予定地を少し過ぎたあたりの岩陰でアイゼンを着ける。岩と氷の混じる岩稜地帯はスリップの危険が付きまとう。テントを出て約6時間後積雪が現れ、ダワ、木下、ナワの順でアンザイレン、50bほどの細い雪稜を越えて先へ進む。後続のパーティーのヘッドライトが続く。ダワは他のパーティーに遅れをとると、上部の登攀ルートで時間が掛ることを気にしてスピードを上げる。谷をトラバースしてしばらくするとやがて稜線の見える広い雪原に6:15到着。雪原に朝日が当たりキラキラと輝いている。広い雪原を黙々と進む。なんとしてもスピードが速い。36歳のダワ・シェルパのスピードについて行くのは65歳の小生にとっては少々きつい。アンザイレンしたザイルが、ともすれば伸び切ってしまいそうになる。やがて、クレバス地帯に入いる。ダワはクレバスを縫ってルートを開拓、クレバスに掛る細いブリッヂ状の場所を通過、雪壁の基部にようやく到達する。雪壁ではアンザイレンを解いてドイツ隊の設置したフィックスロープを使い、アッセンダーを使って登り出す。
 壁の状態は氷の上に昨日の積雪があり、アイゼンのツァッケが氷まで届かず、1歩登ると、ずり落ちる、といった状態である。この壁でドイツ隊がフィックスロープはわれわれが設置したものだ、と主張して他の隊のメンバーとの間でトラブルが起こる。この時われわれ独自のフィックスロープを設置すべく、ダワが壁を駆け上がるようにして登り、ロープをフィックスする。エベレスト3回のサミッターである彼の登りっぷりはさすがである。この壁でかなりの体力を消耗、バテバテの状態となる。やたらに喉が渇く。唾はねばねばを通り越して、口の中はカラカラとなり舌が上顎にくっ付きそうで、しまいには上げそうになる。
 (左から)ダワ、木下、ナワ6,100メートル地点うやく160bの雪壁を登りきり、6100bの地点で待っていてくれたダワ、ナワの両シェルパと10:20合流する。時間的にはまだ早いが、山頂は狭く、ルートは限られていてその間の待ち時間を考えれば、時間切れになるであろう、とのことで止む無く撤退と決める。記念写真を撮って、雪原まで懸垂下降で降る。ここからが長い長い下りの始まりであった。
 登りに酸素をデポした地点に到着「酸素を吸ってみますか、楽になりますよ」とダワ、酸素の必要性は全く感じていなかったが、なにごとも経験「それでは吸ってみようか」と準備にかかるが酸素がうまく出てこない、といった一幕がある。そこえドイツ人が「自分はドクターだが」と声を掛け、診てくれるが血中酸素濃度計を指に当てただけでニッコリ笑って「OK!」高山病を気遣ってくれたのだろう。喉の渇きはいっこうに収まらない。長く長く感じる下りを夢遊病者のようにふらふらしながら下る。16:40ようやくベースキャンプに帰り着く。脇屋氏のメモによると、自分では記憶していないがこの日、夕食は食べなかったそうだ。
 一方、留守中のテントでは脇屋氏はわれわれを見送った後、6:30に起きだして残月の残る西の無名峰をカメラに収め、8:30に無名峰を眺めながら朝食、その後、コック、キッチンボーイ達を写真に収めながら、のんびりと過ごされたようだ。
 今後の予定としては、再度、脇屋氏が頂上をアタック、予定していたカラパタール行き、の2通りが考えられたが、体調、小生の父親のことも勘案してくれ直接下山することに決定する。17:30就寝。

5月13日(日)晴れ、風強し     BC撤収〜ディンボチェベースキャンプを後に。
5:00起床。山は雪で真っ白。8:00朝食。9:10ベースキャンプを後にする。山頂を極めず引き上げるのか、と思うと何となく後ろ髪を引かれる思いとヤレヤレと思う気持ち、複雑な思いを胸に抱きながらディンボチェへの道を辿る。途中、荷物を山のように積んだゾッキョとすれ違う。チュクンの少し手前で、ヒマラヤ8000b峰14座のうち6座に登頂し、10年以内に残り全山の登頂を目指す小西浩文氏と、
F1レーシングドライバーで登山家の片山右京氏のパーティーに出会う。山の状況を聞かれる。彼らもアイランドピークを登る予定だとか。帰国後のインターネットのホームページ情報では、彼らも雪のため登頂できず5700bの地点から引き返したようだ。彼らは今年2001年の秋チョ・オユー、2002年チョモランマ、2003年k2に挑戦する予定だとか。若さと、ゆとりが羨ましいかぎり。すれ違ったゾッキョの荷物は彼らのものだったようだ。
 ディンボチェ到着14:55。アマダムラム・ロッジ泊まり。

5月14日(月)晴れ後曇り   ディンボチェ〜タンボチェ へ
 7:00ベッドティー。昨夜は久しぶりに咳もでずに熟睡する。しかし、少し下痢気味、念のため正露丸を飲む。今朝は昨夜の寒さとは打って変わって快晴で気温も暖かい。途中でアイランド・ピーク下山中に診てくれたドイツチームのドクターが声を掛けてくれる。11:30アマダムラム・ロッジで昼食。15:20タンボチェ広場のテントサイトに到着、この頃から雨がパラツキ出す。広場にテントを設営。18:20夕食。

5月15日(火)雨    タンボチェ〜チュモア へ
 朝起きてみると雨。7:25雨具に身を固めて小雨の中を出発。昨年秋の時は全く雨には遭わなかったのだが・・・雨季が近いためだろう。歩きだしてみると、空気は澄みわたり、名だたる砂埃もなく、雨もまたよし、である。途中、対岸の山腹に往きには無かった落差300bほどの見事な滝が出現している、雨で水量が増したためだろう。日本ならばこの滝だけで立派な観光名所になるのだろう。
 ナショナル公園料金徴収所でまたまた、ドイツチームのドクターに会う、会話を交わすことができないので何度も顔を合わすと、何となくバツが悪い。11:25ナムチェバザール到着。
 15:20今夜の宿舎、チュモアのロッジに着く。かって不法入国していた日本人が経営し、大変繁盛していた、と言われるロッジ「HATAGO」が真ん前にある。日本の野菜なども栽培して周囲の人達には頼りにされていたようだが、不法入国を密告されてこの地を追われたようだ。ロッジは廃屋となっていて、屋根は朽ち落ち落ちているが、石造りの洗濯場はそのまま残っていて現在も使われているようだ。キャラバンは今日で最後、テントをはじめキャラバン中の汚れ物をその洗濯場で、キッチンボーイ、ポーター達が洗っているのが、ロッジの窓から見える。その光景を眺めながら、つい寝込んでしまったらしい。脇屋氏が撮ってくれた写真を見ると、血中酸素濃度計を指に嵌めたまま寝入っている、相当バテテイタ証拠。

5月16日(水)晴れのち雨    チュモア〜ルクラ へ
 5:30心地よく目覚める。朝食も普通に食べる。7:30出発。出発直後は腰に疲れを感じるが次第に調子を取り戻す。9:05往きに泊まった「エベレストゲストハウス」の前の「カラパタール・ロッジ」でホットレモン休憩。午前と午後にホットレモン、夕食前に飲み物とビスケットなどのお菓子、これが毎日のおやつの定番。
 道中、前を行く赤ちゃんを背負ったお母さんに付いていこうと、ナワ・シェルパと必死に追いかけるが、付いていくだけが精一杯、毎日歩いているからだろうお母さんの足の速さに驚く。正午、やっと宿泊地ルクラに到着する。すぐに日本へ電話をかける。父親の容体はよくないようだ。何とか帰国までもってくれれば、と祈るばかり。女房も気が気ではないことだろう。心配をかけて申し訳ない気持ちで一杯。
 明日はポーター達と別れる日、最後の夜とあって、19:00からお別れパーティー。水牛のピリ辛焼き、のご馳走でビールに地酒のチャン、明日は仕事から解放されるとあってポーター達も嬉しそうだ。みんなで最後の夜を楽しむ。登山期間中ほんとうにありがとう。
 21:00就寝。

5月17日(木)   ルクラ〜パプルー〜カトマンズ へ
  ルクラの朝市5:30起床。夜中の3:00頃豪雨、朝起きてみると小雨に変わっていた。それにしても、いよいよ雨季が近づいてきたようだ。朝食後、飛行場横で開かれている朝市を見に行く。水牛・羊の肉類、野菜、香辛料、衣類など食料・日用品の全てが並べられている。人出も多い。
  ルクラ飛行場今日はいよいカトマンズへ帰る日である。パプルーまでヘリコプター、飛行機に乗り継いでカトマンズへ。この天候でヘリコプターが飛ぶのだろうか、座席が確保できるだろうかと心配したが、どうやら飛ぶよう、座席も3人分確保できて一安心。われわれの搭乗予定は最終の9番目の便。フライト時間までロッジで待機する。待機中も情報が正確に伝わらないため何かの都合で搭乗が変更にならないか、気が気ではない。12:00、預ける荷物を少なくするため、高所靴、ダウンジャケットを着込み乗り込む。12;15パプルー着、飛行機に乗り換えて14:00カトマンズにようやく到着、空港でディリップの出迎えを受ける。
 今夜の宿舎は昨年も泊まった「RadissonHotel」。16:30ダワ、ディリップとホテルのロビーで待ち合わせて近くの中華料理店で乾杯。ホテル帰着22:00。

5月18日(金)晴れ   カトマンズ滞在 市内観光 父の死を知る。
 7:00起床。9:00ホテル1階のレストランでビュッフェ形式の朝食を取る。献立の種類も多く、料理も果物も一流ホテルだけに安心して食べることができる。熟睡したためか朝食が美味い。
 ネパール最大のストーパ(仏塔)のあるボダナートへ。仏塔の周りを取り囲むようにツーリスト向けの土産物屋、巡礼者向けの線香や仏具の店が軒を連ねている。虫の知らせか数珠が目に止まり、購入する。
 父の容体が気に掛かる。昼食後、午後1時頃(日本時間16:30)街のインターネット屋から女房の携帯に電話をいれる。今、丁度父の葬儀を終え自宅に帰ってところだと言う。切なさが胸に込み上げる。あと2日・・・・。あるいは、と覚悟して出て来たこととはいえ、故人は当然、全ての人に申し訳ない気持ちでやるせない。皮肉にも次の観光地は、川に面した火葬場のあるパシュパティナート寺院。さまざまな思いが駆け巡る。折角、観光に来ていながら暗い雰囲気となってしまい、同行の脇屋氏には誠に申し訳ないと思うが、口数が少なくなっていくのが自分でもわかる。
 夜、ホテル客室でミニバーのウイスキーを1人で飲む。1人にしてくれている脇屋氏の気遣いがありがたい。手帳にメモを取りながら涙が溢れる。短く、そして長く感じる時間が流れる。脇屋氏の「そのまま寝るなよ」との心配りが胸に沁みる。
パシュパティナート寺院の火葬場月19日(土)   カトマンズを離れる。
 8:00起床。昨夜の酒が残って頭が重い。すぐに朝食。今日はカトマンズを離れる日である。朝食後パッキング。11:30ホテル代清算、ツイン朝食付2泊=100ドル。荷物をホテルに預けて脇屋氏、ダワと3人でDPE屋へ。昼食後土産ものを買いに街をぶらつき、17:30、ディリップ宅を訪問、昨年訪問時は、まだお母さんのお腹の中にいた赤ちゃんが丸々と太っているのに驚く、それだけ当方も歳をとったということだろう。
 ディリップからアイランド・ピーク登頂証明書を受け取って、フライトの時間までご馳走になる。21:30空港へ。空港税は1100ルピー、この支払いはルピーに限られる。絨毯に細工をして時限爆弾を持ち込もうとした者がいたとかで手荷物、ボディチェックともに厳重。
23:45離陸。
月20日(日)晴れ        関西空港到着
 
きと同様上海空港に立ち寄った後、関西空港に日本時間午前11:07無事帰り着く。脇屋氏と別れた後、荷物を宅急便で送り、父親宅に駆けつける。         以 上 

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