parchmo 6273m峰 登頂

)登山隊の名称 2003パルチャモ6273mKAC登山隊」
2)目    的 ロールワリン・ヒマール地域「パルチャモ・ピーク6273m」の登頂
3)期    間 2003年10月8日(水)〜10月29日(水)22日間
4)派遣団体 大阪府山岳連盟所属  関西山岳会
5)隊 の 構 成 隊長1名、隊員6名  計7名サーダー1名、ハイシェルパ2名、シェルパ1名、コック1名、キッチンボーイ4名、ゾッキョ使い1名、ポーター4名計14名。ゾッキョ(牛とヤクを交配した家畜)8頭
6)遠征趣旨  関西山岳会創立80周年記念行事として実施する。
7)隊員・役割分担
    [ 氏 名 ] [ 生年月日]  [ 役 割 ]
   箕口一三 S9.12.29     隊長
   MINOGUCHI ICHIZO
   脇屋龍人 S6.7.9      総務・記録 
   WAKIYA TATSUTO
   佐々木健一 S9.6.23     装備
   SASAKI KENICHI
   木下 荘 S10.11.29    企画・渉外
   KINOSHITA SO
   竹林松司 S12.10.10    食料
   TAKEBAYASHI SHOJI
   木下鏡子   ?      食料・医療 
   KINOSHITA KYOKO
   南口幸子   ?      会計
   MINAMIGUCHI SACHIKO
8)ルート図
                                                       

       
9)行動概要
      

10)予算   総予算 270万円

11)登山活動前半の個人別血中酸素濃度の推移
[朝食時]     個人別血中酸素濃度推移データー
氏 名 10・12 10・13 10・14 10・15 10・16 10・17 10・18 10・19
I・M 90 88 86 87 79 77 80 73
S・K 90 92 94 93 90 90 87 88
K・S 83 89 89 87 80 79 77 80
S・T 82 97 86 80 79 79 73 74
K・K 81 78 83 79 71 78 66 69
S・M 85 84 85 84 82 78 70 73
T・W 85 85 84 80 82 80 65 70
[夕食時] 個人別血中酸素濃度推移データー
氏 名 10・12 10・13 10・14 10・15 10・16 10・17 10・18 10・19
I・M 87 88 83 79 63 72 72
S・K 94 92 91 89 93 88 83
K・S 81 80 82 76 79 74 75
S・T 80 85 84 79 78 71 76
K・K 76 74 75 70 74 61 65
S・M 84 86 83 77 76 69 69
T・W 80 76 80 74 86 69 67

(備考)ナムチェバザールから測定を開始、20日以降はパルスオキシメーターの故障で測定できず。
 体調を崩しBCからターメへ一足早く下山した2名の隊員の状況は
  T・w氏=17日夕方の血中酸素濃度の値が低下、夜半から咳がでて食欲減退。
  k・k氏=17日夕方の血中酸素濃度の値が大きく低下、食欲減退。


    (高度)|3440m  |  3800m | 4300m   |  4800  |
「パルチャモ日記」
  回の海外登山は会の創立80周年記念行事として行った。会独自で記念行事として海外登山を行ったのは今回が初めてである。隊員のなかには若い頃、アイガー東山稜を登った者、ダウラギリW峰遠征隊に参加した者もおり、今回は参加していないが会員の中には過去に国内・海外で活躍したメンバーも多く、80年の歴史ある会として今回対象とした山は少し物足りないが、6000m以上初挑戦の者も含め平均年齢66歳の高齢化集団としては、まあ適当なところだったのかもしれない。

 結果は、参加メンバー7名のうち4名が天候にも、現地スタッフにも恵まれて登頂に成功した。全員登頂を目的に出掛けた隊しては成功したとはいえないかも知れないが、これも年齢を加味して評価することにしよう。個人では気軽に出掛けられるが会の行事として、となると大変だ。現地エージェントとの交渉、現地スタッフの人選、資料収集、計画書作成、メンバーとの数次にわたる打合せ、年齢が年齢だけに何時不参加者がでるか分らない、出発まで気の休まらない、忙しい準備期間だった。

 
全員登頂と、それぞれのメンバーにとって良い思い出となる登山を、と願って出掛けた山であった。ヒヤリ・ハットする場面も幾度があったが、終わった今、全員登頂は果たせなかったが、それなりの成果を挙げ全員無事に帰国してほっとしている。今後、時を経るにつれて各メンバーの心の中で印象に残る山行として楽しい思い出へと膨らんでいってくれることを願っている。

10月8日(水)曇  [ カトマンズへ ]  関西国際空港12:30〜18:30(現地時間)カトマンズ空港

 私にとっては4度目のヒマラヤ行きである。何時ものRA412便に搭乗予定でJR高田駅を7:44に乗車、空港へ向かう。空港で登山期間中レンタルするパルスオキシメーターの保険に加入し、ピックアップサービスの荷物を受け取っているうちに隊員全員が集結。10:00前にチェックイン開始、機中の乗客は定員の半分位、以外に空いている。日本人ばかりだ。3〜4年前はネパール人を含む外国人を多く見かけたが・・・。日本人の乗客が大部分なのにどうして日本語の話せるスチュアーデスを乗せないのだろう、と何時も思っていたが今年は日本語の話せるスチュアーデスが何人か乗務していた。

 上海ではトランジットエリヤまで長い距離を歩かされる。免税店もなく退屈する。カトマンズ・トリブバン空港に定刻に到着。宿舎のホテル「山水」までの道中、街中を走る車が心なしか昨年より少ないと思ったのは、その日は祭りの期間中でみんな家の中をお祝いをしていたせいだったようだ。

10月9日(木)曇のち雨  [ カトマンズ滞在 ]  市内観光

(安全祈願をする隊員) 

 起床6時、小雨の中を昨年同様、登山の安全祈願に徒歩15分位のボダナート寺院へ。雨の後で何時もの砂埃もなく快適。宿舎へ帰った頃から雨がひどくなる。雨季を過ぎた今ごろの雨は珍しい。昨年は26日間1度も雨にあわなかったのだが。この雨では明日のフライトが気がかりだ。午前中、明日からのキャラバンに備えて荷物のパッキング。国内路線の制限重量15キログラムに抑えるのに苦労する。プラスティックブーツ、登攀用具など重たい装備は機内持込用のサブザックに詰め込む。その後サーダー(現地スタッフを統括するガイド頭)のビル・バハドール、ハイシェルパ(高所でのクライミングガイド)のマン・バハドールを交えて打合せを行う。午後はネパールは今回初めての隊員のためパシュパティナートほか市内観光と買い物に費やす。

10月10日(金)曇のち晴  [ ルクラヘ ]  カトマンズ7:17〜7:47ルクラ905〜14:30パクディーン
 
 起床5:30.気がかりだった雨も上がる。ホテル「山水」を6:40出発、飛行場へ向かう。登山基地ルクラまでは40分のフライトだ。

  (国内線の待合ロビー)

飛行機は珍しく定刻に離陸、離陸するとすぐにスチュワーデスが耳栓にする綿とキャンディーを配ってきた。ネパールでは国際線より国内線のスチュワーデスの方が美人が多いと聞いていたが、なるほど美人だ。サーダーのビルが「今一番高い峠を越えました」と横でいろいろ説明してくれが耳栓のため、あまりよく聞こえない。飛行機は定刻にルクラ空港に到着した。

 ルクラでは昨年も利用したTASHI LODEで荷物の詰め替えと、一休みしたあと今夜の幕営地パクディーンへ。パクディーンでは驚いたことに昨年使ったトイレが水洗になっていた、水洗といってもトイレの隅に置いてある容器から自分で水を汲んで流すのだが、昨年よりは随分綺麗になっていた。快適なのはいいが、快適さを追求して、そのうちキャラバン中の幕営もなくなりホテル泊まりが常態となるのだろうか。

(バースデイケーキに
ナイフを入れる竹林隊員)

 今日は竹林隊員の誕生日、サーダーに頼んでコックにバースデーケーキを焼いてもらいお祝いをする。竹林隊員にとっては誠に印象深い誕生日となったことだろう。就寝8:00。                                                                      
10月11日(土)曇  [ ナムチェバザールへ ]  パクディーン8:00〜15:55ナムチェバザール
 
  昨年同様6:00起床、7:00食事、8:00行動開始が行動の基本パターンだ。6:00キッカリ、キッチンボーイが人数分のカップと砂糖を載せた大きな竹篭を片手に、一方の手に大きなヤカンを下げてテントまで紅茶を運んでくる。テントから首を出して大きなカップを受け取り、砂糖を2杯半入れて飲み干す。空気が乾燥しているせいか夜中に喉が渇き、この紅茶が待ち遠しい。今日はキャラバン中一番長い時間、行動することになるであろうナムチェバザールまでである。右下にドゥドコシの流れを見ながらビスタリ(ゆっくり)、ビスタリでキャラバン。カメラ好きの箕口隊長はシェルパに山の名を確認しながら撮影に忙しい。全員元気にナムチェバザールへ到着。ゴンパ(寺院)の直ぐ下に隊員用4、サーダー用1、ハイシェルパ用1食堂テント1計7張りと、トイレテント1を設営する。
 
 テントはバッテイ(ロッジ)のあるところでは、その庭に張り、トイレは、ロッジのトイレが利用できない場所では小さなトイレテントを張って地面に穴を掘り、そこで用をたすことになる。今日はそのトイレテント利用の初日である。用を足しに行ってみると穴の幅・深さともに絶妙、見事な出来栄えのトイレに大いに満足する。早速担当者を褒めちぎっておくようサーダーに指示、併せてサーダーの普段からの教育の効果だ、と褒めておく。事実、下山するまでその出来栄えはこれまでより数段上であった。細かなことのようだが毎日お世話になる場所だけに、快適か、どうかはその日の行動・士気に大いに影響する。以上トイレ談義でした。

10月12日(日)晴  [ ナムチェバザール滞在 ・・・高度順応 ]  ナムチェパザール8:40〜エベレストビューホテル〜13:05ナムチェバザール

(ナムチェバザールのキャンプ)

 今日は3440mのナムチェバザールから3859mのエベレストビューホテルまで高度順応のため往復する。エベレストビューホテルへ出掛ける朝食前にエベレストが望めるナムチェの丘へ出掛ける。幸い天候に恵まれエベレスト、ローツェ、ヌプツェ、アマダムラム、カンテガ、目的の山パルチャモも頭をだしている、何度見ても素晴らしい眺めだ。みんな素晴らしい眺めを盛んにカメラに収めている。木下鏡子隊員は15年前お亡くなりになった、山をこよなく愛していたご主人の遺骨を、素晴らしい眺めのナムチェの丘にそっと埋めてきたようだ。彼女の心のやさしさが覗われる。
 
 エベレストビューホテルのテラスではポットのコーヒーをガブ飲みしながら眺望を堪能。13:05分ナムチェへ戻る。午後はそれぞれ現地での調達を予定していた装備などを購入して時を過ごす。

10月13日(月)晴  [ ターメへ ]  ナムチェバザール8:00〜14:20ターメ

 ターメのテントサイトは「エベレストサミッターロッジ」の庭だ。ここの主はエベレスト登頂13回の記録保持者、ギネスブックにも掲載され、つい先日12月7日に放映されたTBSのTV番組「世界遺産・サガルマータ国立公園」で紹介されたアパ・シェルパが経営している。ロッジの食堂には登頂証明書が所狭しと飾られている。早速、隊員は記念にチョッキ、帽子などにサインをもらう。シェルパは収入も多いそうだが部屋の中も小奇麗でその裕福さが覗える。
 
 夕食には今回はじめてモモ(餃子)が出る。美味い。今回のコックは、料理が上手なようだ。隊員も目下のところ全員元気で食欲も旺盛、太って帰るのが気掛かりなようだ。これから高度の影響が出てくるので、その心配はないと思うのだが・・・・・。

10月14日(火)晴  [ ターメ滞在・・・高度順応 ]  ターメテントサイト8:05〜8:45ターメ北北西の丘陵4250m〜12:00ターメテントサイト
 
 ターメ北北西の丘陵、高度4250mの地点まで高度順応へ出掛ける。最高到達点手前でチョ・オユーが良く見える。頂に雲が掛かっていて、その雲が刻々と形を変えるのが面白い。テント帰着正午。昼食はソーメン、コックはこれまで日本人パーティーとの同行が多かったようで、ソーメンの味付けも上手だ。ソーメンが美味すぎて続いてでてきた料理は食べきれず。
 
 午後はハイシェルパも含め隊員全員テントの前で、ハーネスを着けて登攀用具の確認、点検、をする。キッチンボーイ、ポーターたちが周りを取り囲み物珍しそうに見ている。ハイシェルパ見習いのラムシェルパもポーター達の前でハーネスを着けて満足そうだ。その後、輪の中にいたキッチンボーイと話をしているうちにアパシェルパの子供も寄ってきて最後は日本語勉強会となる。
 
 カトマンズでレンタルした寝袋は、まことに窮屈で、できれば広い寝袋と交換するようサーダーに申し入れていたのだが、ここのロッジの主、アパシェルパの寝袋を借りることになる。「この寝袋はダウンではないがダブルになっていて私がエベレストのサウスコルで使ったものだから大丈夫です」と、アパシェルパが届けてくれる。
 就寝7:10。

10月15日(水)曇  [ テンポーへ ]  ターメ8:05〜11:20テンポー〜15:09裏山ピーク4600m〜16:05テンポーテントサイト
 
 アパシェルパから借りた寝袋は広くて快適、昨夜は熟睡する。今朝のお勤めでは少し軟便、昨年のディンボジェでのシャワー状態の激しい下痢が思い出される、用心のため正露丸を飲む。朝、テントのそばでゾッキョ使いが2頭のゾッキョに瓶から何かを無理やり飲ましている。他のゾッキョは牧草を盛んに食べているが、その2頭は全く食欲を示さない。聞いてみると昨日道中でシャクナゲを食べてあたったらしい。シャクナゲにも害にならないものもあるらしいがその区別がつかず、まれにこんなことがあるようだ。飲ましているのはロキシー(焼酎)で、酔っ払った勢いで仕事をさしてしまおうと言う魂胆のようだ。事実、途中で出会うと、この2頭もちゃんと荷物を運んで仕事をしていたから治療薬としてロキシーが効果を発揮したのだろう。
 
 今夜の宿泊地テンポー11:20到着。昼食後すぐに裏山4600mの地点まで高度順応のため登る。テンポーのテントサイト帰着16:05。19:00頃夕食を食べているとヘッドライトを点けてイタリヤ隊の6名が降りてくる。パルチャモ登頂を果たしてきたようだ。ハイキャンプを6:00出発、とのこと、6:00出発はいかにも遅いと思うが13時間の行動だ。ハイキャンプの位置にもよるが年齢差など考慮するとアタック当日はわれわれも相当ハードな行動を覚悟しなければならないだろう。
 夜は大分冷え込む。ダウンのズボンのインナーを着て寝る。就寝8:27。

10月16日(木)快晴  [ テンポー滞在・・・高度順応 ]  テンポーテントサイト8:05〜9:35リオカルカ〜11:15テンポーテントサイト

 テンポー4320mから4555mのリオカルカまで高度順応のため往復する。出発前ハイシェルパのマン、ダン達が近くの岩でボルタリングを楽しんでいる。一緒になって挑戦してみるが身体の硬さを再認識したのみ。

(日本語を勉強する
キッチンボーイのパサン)

 リオカルカでノンビリと休憩しているところをポーランド人2人のトレッカーが通り過ぎていく、彼らもガイドレスだ、外国人はこのスタイルを多く見掛ける。リオカルカで1時間30分ほどノンビリ日向ぼっこをして帰る。テンポーのテントサイトに帰るとターメで日本語を教えていたキッチンボーイのパサンが日本語を習いくる。近くにいたゾッキョ使いの青年と一緒に第2回目の勉強会を開く。パサンは16歳だがビルサーダーのところへ今回の登山隊の仕事を求めてきたそうだ。パサンの仕事振りは真面目で、よく気がつき若いがしっかりしている。将来はビルのようなサーダーか登山技術を身につけてハイシェルパを目指しているのだろう日本語の勉強態度も積極的、熱心にノートをとって日本語を吸収しようとしている。その意欲がこちら側にも伝わってきて勉強会にも自然に熱が入る。
 夜は相当冷え込む。今夜からダウンの上着を着込む。

10月17日(金)晴  [ いよいよBCへ ]  テンポー8:05〜11:35ベースキャンプ
 
  リオカルカ泊まりの予定をスキップしてBCに入る。ガラ場のテント場にタルチョ(祈願旗)がはためいている、芝生のテンポーのテント場とは違い寝心地が悪そうだ。
 午後は明後19日にハイキャンプに荷揚げする荷物のパッキングをする。夕食時のパルスオキシメータの計測で木下(鏡)隊員の数値が61%に低下、食欲なく元気もない大いに心配。
 キャラバン開始後今日はじめて下着類を交換する。10日ぶりだが、乾燥しているせいか、そんなに気にならない。もっとも本人が鈍感なせいもあるが。
  
10月18日(土)晴  [ ベースキャンプ滞在・・・高度順応 ]  ベースキャンプ9:00〜5200m地点〜13:00ベースキャンプ

 脇屋隊員は、昨夜半から咳で睡眠不足気味、木下(鏡)隊員も食欲がない。朝のパルスオキシメーター計測値は65、66%とそれぞれ低位、そのため今日の行動は見合しベースキャンプで停滞とする。その他のメンバーはハイキャンプの位置が確認できる5200m地点まで高度順応を兼ねてルート偵察に出掛け13:00にテントに帰着する。
 午後はテントサイト近くのモレーンの斜面を利用してプラブーツ、アイゼン、ハーネスをつけて装備の最終点検、ユマールを使っての登攀、フィックスロープでの懸垂下降の最終チェックを行う。
 行動したメンバーがベースキャンプに戻った時点では脇屋、木下(鏡)両氏の調子は大分回復しているように見受けられたが、夕食時のオキシメーターの計測値では大きな好転は見られず食欲もなさそう。脇屋隊員の意向で明朝の具合では低い高度へ降りることも考慮し、その場合の対策をサーダーと調整する。パルスオキシメーターの数値は悪くないが2〜3日前から続いていた箕口隊長の咳も治まらず、ひどくなれば急性肺水腫の可能性もあり心配だ。
 
10月19日(日)晴  [ ハイキャンプへ ]  ベースキャンプ7:30〜14:42ハイキャンプ
 
 朝目覚めると同じテントの脇屋隊員の調子が良くない。昨年も一昨年もそうであったが氏は5000m近くになると調子を崩すようだ。血中酸素濃度も大きくは好転していない。木下(鏡)隊員も同様で食欲がなく元気もない。ハイキャンプ入りはできないことはないが、アタック当日、もし途中で撤退することになればアタックメンバーの戦力を割くことなりかねない、との脇屋隊員の判断で木下(鏡)隊員とともにターメまで下ることを決断する。脇屋隊員は私と一緒にヒマラヤに来て今年で3年目、3度目の正直で今年は是非とも登ってもらいたかったが誠に残念。2人に見送られてアタックメンバーは7:30ハイキャンプへ出発する。
 
 ベースキャンプ4800mから5650mのハイキャンプまで850mの登りだ。5200mのキャンプ跡を過ぎ昨日の偵察到達地点から眺めた氷河の末端に着く。タンギラウタウ6943m側から押し出されたセラックを右上に見ながら登り続ける。11:50、ハイキャンプに荷揚げを終わったポーター、キッチンボーイ達が下りてくるのに出会う。彼らと一緒に休んでいると、ターメ、テンポーで日本語を教えていたキッチンボーイのパサンが自分が焼いた自分の昼食のパンを持ってくる、日本語の出来ない彼はボディランゲージで食べてくれと言う。なかなか心の優しい少年だ。われわれの食事には提供されていないパンで、日本の蒸しパンのようなもの、喉が渇いていたこともあり、あまり美味いとはいえなかったが、その心根が嬉しい。

 13:00頃、後ろを振り返ると佐々木隊員がルートを左にとって滝の方向へ登って行くのが目に入る。元のルートへ呼び戻そうと大声を張り上げるが離れすぎて声が届いかないのか、そのまま登り続けている。13:20昨日のルート工作で設置したフィックスロープの場所で佐々木隊員を待つが到着しない。アイゼンを着けていない状況で気掛かりだったが滝の上部で改めて待つことにしてフィックスロープの場所を通過、滝の上部が見渡せる場所にきて、立ち往生している佐々木隊員を発見、ダンシェルパのサポートでようやく合流、大事に至らずほっとする。若い頃アイガー東山稜を登ったことのある佐々木隊員は、血が沸き立つのを抑え切れなかったのだろう。

 (5650m地点のハイキャンプ)

 雪面を登りタンギラウタウ6943mから切れ落ちているオーバーハング気味の岸壁に、へばりつくように張られているハイキャンプに14:45到着する。佐々木隊員は疲労困憊の様子、こちらもヘバッテいたが何とかテントに運び入れる。高所での労働は応える。夕食時にも興奮しているのだろう何時もと違いかなり饒舌になっている。高度も影響しているのだろう。箕口隊長の咳も治まらない。明日は頂上アタックの日、2人とも回復してくれれば良いが。今夜はテント1張り減となり箕口隊長と寝る。就寝8:30。

10月20日(月)快晴  [頂上アタック]  ハイキャンプ3:30〜11:30山頂〜ハイキャンプ〜20:30ベースキャンプ
 
 リオカルカ一泊の予定をスキップしたため予定より1日早い頂上アタックとなる。午前1:50目覚める。昨年のロブチェ・イーストアタックの朝より暖かそうだ。昨年の反省で水を十分ザックにいれ、ハーネス、アイゼンを身につける。テント前の雪面で、カップに入れたお茶漬け1杯を立ったまま喉へ流し込む。アタックメンバー全員の写真をデジカメに収めて雪面に第1歩を踏み出す。出発してすぐ竹林隊員のヘッドライトの調子がおかしい、一緒にライトの点検をしていると私の肩をマンシェルパが叩く、振り返ると箕口隊長が雪面に仰向けになっている。彼は2〜3日前から咳で体調を崩しており、この調子では到底山頂を踏むことは無理。マンシェルパが付き添って箕口隊長はこの地点からハイキャンプに戻る。マンシェルパは隊長を送ったあと登り返してくる。
 
 ダン、佐々木、木下、マン、竹林、南口のオーダーで登りはじめる。佐々木隊員は一昨日のアクシデントの影響か調子が悪そうだ。途中で「先に行ってくれ」の佐々木隊員の声で氏と入れ替わり登り続ける。出発後、約2時間、フィックスロープ地点に到着。アッセンダーを使って雪壁の登攀を開始する。昨年もそうであったが6000mでのアッセンダーを使っての登攀は苦しい。隊員間の距離が次第に離れていく。50m×9本=450mを登りきり一休みする。はるか下の方に後続パーティーの人影が見える。 少し平坦な場所をノーザイルで進んで、頂上から500m位のところからダン、木下、佐々木と、マン、竹林、南口の2パーティーに分かれてアンザイレン、トラバース気味に登り続ける。ダン・シェルパも何歩か登っては立ち止まり、また何歩か登る、といった調子で全員苦しそうだ。特に佐々木隊員の調子が悪そうだ。時折うつ伏せになってしまう場面が見受けられる。強靭な体力で日頃は”強さ”を発揮している佐々木隊員にしては珍しい。

   (左から南口、竹林、佐々木、木下の登頂メンバー)

 11:30、ダンシェルパに続いて頂上に到達。しばらくしてマンのパーティーも登ってくる。頂上には小さなタルチョ(祈願旗)が埋まっていた。山頂で記念写真を撮り、一休みの後、南口、竹林、マン、と佐々木、木下、ダンの順で2パーティーに分かれてアンザイレンで下降を開始する。佐々木隊員はますます弱ってきているようだ、ふらついて足元が危うい、結局、下降中に2度滑落、1度目は止めたが、2度目は一旦は止めたが支えきれずに私自身も雪面に飛ばされてしまう。フィックスロープの箇所はフィックスロープにエイト環をセットして懸垂で下降する。
  この頃から風が強くなってくる。雪面の雪が吹き飛ばされてバタバタと衣服を叩く。懸垂の順番をを待っている間が猛烈に寒い。エイト環のかけかえを何度か繰り返しながらフィクスロープ終点に到着する。マンシェルパが一人で待っていて「駄目です!」と言う。聞くと「竹林さんがザックを落としました」、竹林隊員はカメラも入ったザック全てを流してしまったらしい。残念なことをしたがザックでよかった、と考えるべきか。少なくともルート終盤の事故でよかった。マンシェルパは自分の責任だとを感じているようで恐縮していた。が当然これは本人の問題。
 ハイキャンプはアタック中に撤収しているためBCまでくだらなければならない。ハイキャンプ撤収跡で大休止の後、BCへと向かう。途中のフィックスロープの箇所で佐々木隊員が再度、滑落する。氷の上で頭を打ったようなのでダメージがどの程度か?BCまでまだ先が長い、無事に辿り着けるか、と心配する。
 
 夜道に日は暮れないと思ったが下れども、下れどもBCは見えない。夢遊病者のように20:30、BCに帰り着く。キッチンボーイのパサンがジュースを持って駆けつけてくれるが胃が受け付けない。昨年も同様だったが夕食も食べずにテントにもぐり込み、寝込んでしまう。3:30に出発して、実に17時間の行動、かくして長い長い一日が終わった。

10月21日(火)晴  [ ベースキャンプ撤収ターメへ ]  ベースキャンプ8:15〜14:30ターメ
 
 ベースキャンプを撤収して帰路につく。今朝から軟便で食欲もなし、登頂目的を果たしホットした開放感からか休憩の度にひと寝入りる、といった状況でダラダラとターメへの道を辿る。ターメの見える丘までくると、脇屋、木下(鏡)両氏と一緒にターメへ下ったラムシェルパが、ジュースの入ったヤカンをぶら下げて迎えに来てくれる。小休止の後、道端のマニ車に無事登頂を果たしたお礼の気持ちを込めてオン・マニ・ペメ・フム(おお蓮の内なる宝珠よ)と、お経を唱えてターメへ。
 
 ターメのアパシェルパのロッジでは脇屋、木下(鏡)両隊員の出迎えを受ける。脇屋隊員は「よく頑張った!」と自分が登ったかのごとく、握手で迎え喜んでくれる。仲間の祝福は心に響く。後で聞くところによるとアパシェルパは、われわれが出発したあと、せいぜいBCまでだろう、と噂をしていたそうだがその彼も一緒になって祝福してくれる。夜はケーキを焼いてもらい登頂祝賀パーティー。

10月22日(水)晴  [ クムジュンへ ]  ターメ9:10〜13:30テショー〜16:00クムジュン

 日程が1日短縮となり予定外のクムジュン村へ寄り道をする。クムジュンではアマダムラムが真正面に見える「アマダムラム・ロッジ」の庭にテントを張る。シェルパがアマダムラムが良く見えるようにとテントの入り口をアマダムラムの真正面に向けて張ってくれたお陰で存分に眺望を楽しむことが出来た。

10月23日(木)快晴  [ ナムチェバザールへ ]  クムジュン9:10〜13:30テショー〜16:00ナムチェバザール
 
 日本の松本ヒマラヤクラブ、同志社大学、富山県などが寄付した学校が集まっているクムジュン村の学校村を見学したあとコンデ村を訪れる。仏塔が多く見受けられる、コンデ村の豊かさの象徴だろう。今日はナムチェバザールまでの短い行程である。途中、日本庭園のようなコンデパスでは1時間ほど昼寝をするなど、のんびりとナムチェへの道を辿る。ナムチェの村全体が見渡せる丘の上から眺めると、やっと戻ってきたかとホットした気分になる。

 ナムチェの丘にある博物館に立ち寄る。このあたりはマオイスト対策の警戒が厳重で近くに兵舎がある関係もあるのだろうが、周囲には柵がめぐらされ、すぐ横の塹壕からは機関銃が顔を覗かせている。シェルパはガイドの証明書の提示を求められ、彼らは柵内へザックの持ち込みは許されない。
 
 夜は次の仕事のために一足早く隊を離れるマンシェルパのお別れ会を開く。2〜3日前から体調を崩して食欲もなかった竹林隊員は今日は復調したようで元気そうになっている。箕口隊長も咳きは相変わらずだが少しは復調したようでビルサーダーが村で調達してきたロキシーを美味そうに飲んでいる。久し振りに盛り上がる。

10月24日(金)雨  [ パクディーンへ ]  ナムチェバザール9:15〜15:15パグディーン
 
 7:00、次の仕事のため一足早くカトマンズへ戻るマンシェルパを見送る。短い期間であったが一緒に頂上アタックした間柄、別れるとなると名残惜しい。村はずれの山陰に消えていくマンに大声で別れを告げる。
 
 ナムチェバザールでは毎週土曜日に市場が開かれる、パクディーンまでの道筋は、豚の丸焼き、むき出しの水牛の肉塊、生きたままの鶏、その他、キャベツ、人参などなど、明日の土曜市のための商品がゾッキョ、ポーターの背に担がれて運び上げられていく、この荷揚げの日に出会ったのは初めてだが驚くほどの物量だ、明日の天候は良くないようだが全部捌けるのだろうか、余計なことだが心配になってくる。
 
 パクディーンのテントサイトに着いた頃から雨は本格的になってくる、気温も下がって寒くなってきた。恐らく上の方は雪だろう。同じエージェントのアイランドピーク隊は今日がアタックのはず、登頂は無理なのではないだろうか、と心配になってくる。

10月25日(土)雨  [ ルクラへ ]  パクディーン9:00〜12:30ルクラ

 往路に立ち寄ったルクラのTASHI LODEに到着してから昼食をとる。キャラバンは終わった。登山基地ルクラに戻ってくると長いようでもあり、短くも感じた登山活動もようやく終わったなー、と実感する。お世話になったシェルパ、コック、ポーター達現地スタッフとも明日はお別れ、夜はお別れパーティーを開き名残を惜しむ。

10月26日(日)晴  [ 空路カトマンズへ ]
 昨日の天候でフライトが心配されたが、空港であまり待たされることもなく8:20、無事カトマンズ空港へ帰りつく。

10月27日(月)晴  [ カトマンズ滞在 ]     
 夜はカトマンズの最高級ホテル「ドゥワリカ・ホテル」内のレストラン「クリシュナーパン」で最後の夜を過ごす。

10月28日(火)晴  [ 日本へ ] 
 深夜23:45カトマンズ空港を離れ29日11:40分全員無事に帰国。