2022/07/17

関西山岳会退会表明にあたって

関西山岳会(前)会長 木下 荘

 

私の入会は195712月(昭和32年)。今年(2022年)64日お亡くなりにになった赤山名誉会長とのお付き合いは65年になる。関西山岳会の拠点、好日山荘奥のルームを初めて訪ねた時、赤山名誉会長は、一番奥の座長の位置に。山道具を納めた長椅子には大柄な男たちが座っていた。あの童顔で小柄な人が一番偉い人なのか、と奇異に感じたこと、初めての夏山合宿からから帰って赤山さんが別人のように大きく見えたことをよく覚えている。

赤山さんとは1959年剣尾根登攀、あぶみを使って到達した二人がやっと立てるテラスで開けた、P缶にまつわる思い出、斜上するクラックで、ここからトップで行くか?と、状況に応じた指導、温かみが心に染み入る。19601月小窓尾根では、立命館大学6名の遭難救助に全面協力、最終キャンプから高山、立命館大OB,3名でニードルまで捜索したが見つからず。翌春、滝で発見される。今も馬場島に6名の立派な慰霊碑がある。遠い昔のことだが慰霊碑の前に立つと当時が懐かしく思い出され感慨深いものがある。

 2021118日亡くなった(故)竹林松司氏が鹿島槍で遭難した時には会単独で救助隊を組織、私も参加したが、脇屋龍人氏が第一発見者で竹林氏を救出した楽しくない思い出もある。

その後は、仕事の関係で暫く山から遠ざかっていたが1999年赤山名誉会長から活動再開スタートのために呼び出される。

2000年、箕口会長の下で総務を担当。以来2016年会長就任を含め現在まで、再スタート後の、会の活動実態を身近に眺めてきた。2003年には、会創立80周年記念事業としてのParchamo(6237)遠征隊を、計画から帰国までを主導した。関西山岳会初めての会単独の遠征隊で参加人員7名。4名が登頂を果たす。登頂できなかった人も含めそれぞれの立場で印象に残る山行になったと思う。その直後に起こったネパール大地震では被害にあったサーダーの村へ会員に呼びかけて一部会費からも拠出して寄付金を送ったこともある。

2015年には、会組織存続の危機を迎える。そこで、古参会員を含む拡大運営委員会を開き、拡大運営委員会⇒臨時総会の手順を経て組織としての関西山岳会の継続を会員全員で決定し2017年添付の内容の「会長あいさつ」を総会で発表して現岩井会長に引き継いだ。

2017年大阪府山岳連盟の「山スクール」に入校した中垣副会長は、無雪期、積雪期の実技、天気図を含む論文提出など期待通り、体系的に知識・技能を修得、大阪府山岳連盟の講師アシスタントを務めるまでになった。

私は今年87歳。老人が在籍しているだけで、資料の配布、役に立たない意見も無視できないなどなど、次の世代に有形無形の負担がかかることは、体験上十分承知している。在籍していてもこの先有益な助言ができるとも思えない。

「老兵は死なず、消え去るのみ」(ダグラス・マッカーサ)(「役割を全うした者は消えるだけ」、「仕事を終えたので引退する」言った意味。)

赤山さんも旅立たれた。脇屋も退会された。在籍65年。名残惜しいが私も退会します。直近の「LINE関西山岳会」は確かな新しい息吹を感じます。

“環境は人を育てる”、究極の極限状態で垣間見た本物の人たちの言動。私は、この会に、籍を置いたこと、当時の立派な先輩に育ててもらったことに感謝している。

みなさんも関西山岳会に籍を置いたことに感謝できるコミュニティーを築かれることを楽しみにしています。


以上